t高槻市の名誉市民

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2018年2月25日



高碕達之助に学ぶ会 発足記念講演会へ



高槻市の名誉市民である、高碕達之助氏。昨日は、学ぶ会の発足記念講演会に参加させていただき、より人物を知り、その功績を学ばせていただきました。

市のホームページより、高碕達之助氏は明治18年、高槻市柱本で生まれ、昭和16年、請われて満州重工業開発株式会社副総裁に、翌年には総裁に就任。同27年には電源開発株式会社初代総裁となり、産業発展の基盤となる電力供給の確保のため、大規模水力発電の開発に努められたそうです。

御母衣(みぼろ)ダム建設の際には、郷土をダムに沈めまいとする岐阜県荘川(しょうかわ)村住民らによる反対運動が繰り広げられる中、住民の心情に胸を痛めながらも国の発展を思う一心で真摯な対話を続け交渉成立に導き、そして同村には寺の境内の片隅に樹齢400年にも及ぶ大きな桜の木があり、村人たちにとって生活の象徴である桜を救いたいとの思いで、困難な移植を敢行されました。

その桜は荘川桜(しょうかわざくら)と名付けられ、現在もダムを望みながら悠々と立ち、そのかたわらには「ふるさとは 水底となりつ 移し来し この老桜 咲けとこしへに」と、高碕氏が詠んだ句が刻まれた石碑が立てられているそうです。

国政においては、昭和29年、第一次鳩山内閣に経済審議庁長官として入閣。翌30年、衆議院議員に初当選。以後4回の当選を果たし、第二次岸内閣時には通商産業大臣、科学技術庁長官等を務められ、同年、バンドンで開かれたアジア・アフリカ会議では日本政府主席代表を務め、平和十原則採択に貢献。

また、日中経済交流の基礎となるLT貿易(Lは廖承志[りょうしょうし]氏、Tは高碕氏の頭文字)を実現させ、日中友好の架け橋となるなど、長年にわたり政財界において数々の功績を残されました。 (昭和39年 ご逝去、同年2月に高槻市名誉市民に)

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