e避難指示解除 都路からの報告<下>
- 2014.04.07
- 情勢/社会
公明新聞:2014年4月5日(土)付
故郷よ!
大胆な支援で「再生」のモデルに
延々と続く田畑と山林を窓外に見ながら、都路地区のメーンストリート、国道288号を東へと走り続けると、車は突如、「通行止め」の標識が掛かった柵に出くわす。原発の町・大熊町との境界点だ。山里ののどかな春の風景にはおよそ似つかない、その無機質な鉄製の柵を前にすると、この地が原発からわずか20キロの距離にあることをあらためて思い知らされる。
「やれ20キロ圏だ、30キロ圏だと振り回された揚げ句に戻ってきたけど、娘たちは避難先の東京に残ったまま。実を言うと、俺の住所ももうここには無いんだ」。20キロ圏内にある自宅の庭先でそう語り、唇を噛むのは農家の山田淳さん(62=仮名)。「一体、この3年間は何だったんだろねぇ」
原発事故後、山田さん一家は親類を頼って埼玉県や千葉県などを転々とした後、2年前に東京に落ち着いた。当時、2人の娘は中学生。都立高校への進学と、希望していた都営住宅への入居のためには、住民票を移すほかなかった。
「娘たちは学校を卒業したら戻ると言ってるけど、どうなるか。第一、"東京都民"になってしまった俺自身、どうしたらいいのか。避難指示の解除自体はうれしいが、やっぱり不安は消えないよ」
田村市中心部の船引地区で避難生活を送る婦人も、この時点での避難指示解除に心が揺れる。
「仕事、買い物から近所付き合いに至るまで、この3年間で生活環境は様変わりした。そしてやっと新しい環境に慣れてきたと思ったら......」。そう言って、(1)精神的賠償はあと1年(2)その間に帰還すれば90万円を追加賠償―という国の方針への戸惑いを隠さない。
そんな住民たちの声を代弁して、「要するに、故郷はなお遠いということ」と語るのは、都路6区の吉田勝男行政区長。「帰還する年配者と移住を決めた若者との世代間ギャップ、20キロ圏の内か外かで違う賠償の格差などで、都路の自慢だった"結"はすっかりヒビ割れてしまった」と悔しさを滲ませながら、「ゼロからの出発だが、本来の都路の姿を何としても取り戻す」と表情を引き締めた。
福島県内11市町村のトップを切って避難指示が解かれた田村市都路地区にのしかかる"3年の空白"の重み。戻る人にも戻らない人にも、そして迷いの中にある人にも共通して燻るのは「何も悪いことをしていないのに、なぜこんな仕打ちを受けなければならないのか」との遣り場のない"恨み節"だ。
この切実な嘆きの声に断じて応えようと、公明党は都路再生に全力を尽くす。あす6日には赤羽一嘉経済産業副大臣(公明党)が現地を訪ね、住民との懇談会を開く予定だ。後に続く10市町村も視野に、「都路再生構想」ともいうべき大胆なモデル事業の展開が始まった。