e心を結び未来へつなぐ

  • 2014.07.17
  • 情勢/社会

公明新聞:2014年7月17日(木)付



3.11被災地最前線発
復興"倍速"への視点
「まちづくりNPO新町なみえ」を追って



公共サービスの担い手として欠かせない特定非営利活動法人(NPO法人)―。東日本大震災の被災地でも、復興の"要"となる役割を果たしている。東京電力福島第1原発事故によって全国へ離散した福島県浪江町の避難者の交流に努める「まちづくりNPO新町なみえ」(神長倉豊隆理事長)の取り組みを追った。

行政の隙間に"草の根"力

故郷感じる交流の場を提供
福島・二本松市を拠点に浪江町の復活めざす

「今はスタッフが足りなくて、事務作業に追われています。厳しいけれども、頑張らないとね」。浪江町から西へ約60キロ、福島県二本松市にある事務所で、神長倉理事長は苦笑混じりに語った。手には、震災後に開いた祭りの写真アルバムが。ページをめくると、"あの時"の光景が鮮明によみがえる。「みんな大変な状況だ。でも、望んでいるんだよ。故郷の復活を......」。険しい表情の中に、希望を信じ抜く意志がにじむ。

時をさかのぼること3年前―。町民の多くが避難する二本松市での盆踊り会場には、避難先から駆け付けた町民約3000人が集った。

「久しぶり! 今、どこにいるのよ!」「福島市の仮設住宅よ! 元気そうで良かったわぁ!」。再会を喜び合う婦人たちの語らいは延々と続いた。

時折、涙を浮かべながら再会を喜び合う町民たち。眼前のその光景は、主催者である「新町なみえ」のスタッフ全員にとって活動の原点になった。「町民は絆を求めている。皆の心をつなげていきたい」。以来、盆踊りは"故郷を感じる場"となり、大勢の町民が集う恒例行事となった。

原発事故によって全町避難が続く浪江町の人々は、震災直後から翻弄され続けた。第1原発からわずか5キロの距離にありながら、どこへ避難すべきか正確な情報は届かず、国の避難バスも来なかった。

その結果、町民の避難は遅れ、コミュニティーは崩壊した。5月31日現在で町からの避難者数は、県内に1万4692人、そして、6382人が和歌山県を除く46都道府県に散らばる。町民として生き続けるか、それとも新たな土地での人生を選ぶべきか―。離散した町民は、目の前の現実に今も悩み続けている。

だからこそ、「新町なみえ」は、震災の年の8月に結成して以来、離散した町民とのコミュニケーションを最も重視し、全国各地で交流会を精力的に開催してきた。町の復興計画に対する意見をはじめ、各自が抱える不安や不満にも耳を傾け、行政では対応しきれない隙間を埋める役割を発揮。町民の絆の再生に大きな成果を生んでいる。

早稲田大学などの協力を得て、町民でつくる「なみえ復興塾」(原田雄一塾長=同町商工会長)と共に策定した独自の復興ビジョン「浪江宣言」もその一つ。昨年3月の発表に続き、今月3日には改訂版を馬場有町長へ申し入れた。

その柱は、避難先自治体で町民がまとまって暮らす町外コミュニティー(仮の町)の実現だ。町と避難先自治体との連携を強め、相互に発展する施策も盛り込んでいる。原田塾長は、「避難先の自治体の活性化に協力し、恩返ししていきたい」と語る。

ほかにも、全国に呼び掛けて「なみえTシャツコンテスト」を開催したり、県内外で自治会を立ち上げたりと、さまざまな活動を展開する「新町なみえ」。5月末には、"現地NPO活動の先進事例"として、東京で開かれた日本NPOセンター(早瀬昇代表理事)主催のフォーラムに神長倉理事長が出席。来し方3年余りの奮闘の姿を報告した。

同センターの山岡義典顧問は、「明日の故郷の姿もはっきりと見えない中、行政とはひと味違う存在感を発揮している姿は、まさに現地NPOのモデル」と評価した。

震災前、神長倉理事長は、息子と共に商店街で生花店を営み、孫3人に囲まれる生活を送っていた。しかし、震災で息子家族は関東へ避難。残ったのは、店のホームページだけだ。

それでも前を向く。「私たちは無理でも、次の世代は浪江に戻れるかもしれない。そのために、生き残った私たちが未来への責任を果たしていきたい」。そう語り、神長倉理事長はアルバムを閉じた

月別アーカイブ

iこのページの先頭へ