e一番大切なのは「命」

  • 2015.03.11
  • 情勢/社会

公明新聞:2015年3月11日(水)付




あの日と向き合い、前へ



東日本大震災から4年。あの日突然、大切な人を失った人々は、かけがえのない命の重みを噛みしめて生きてきた。「命こそ大切」。最愛のわが子を亡くした父、そして母は、そう心の底から訴える。



大川小で次女が犠牲 「娘はいつもそばに」



宮城・石巻市 佐藤 敏郎さん



月明かりが照らすプレハブ小屋に、明るい笑い声と懐かしの歌謡曲が響く。宮城県女川町の「女川さいがいFM」のスタジオ。ギターを片手に軽妙なトークを繰り広げているのは、公立中学校の教師でもある佐藤敏郎さん(51)だ。


昨年4月からボランティアでDJを務め、番組は間もなく50回を迎える。「とても好評。敏郎先生の歌と話に、みんな元気をもらっています」とスタッフの宮里彩佳さん。5日の収録では、大津波が町を襲った4年前のことも語り合った。


あの日、佐藤さんも愛する家族を亡くした。次女のみずほさん(当時12)。自宅のある石巻市の市立大川小学校の6年生だった。


当時、佐藤さんは、女川第一中学校の教務主任。同校に津波は到達しなかったが、生徒たちをさらに高台の浄水場まで避難させた。


家族のことは心配しなかった。地元は北上川沿いとはいえ、山に囲まれた地域。だが2日後、長男と共に学校を訪ねてきた妻は、目の前で泣き崩れた。「みずほの遺体があがったの......。大川小が駄目だった」


翌朝、大川小に向かうと、一帯は水没していた。橋のたもとに、泥だらけの子どもたちが数十人、横たわっていた。その中に、みずほさんはいた。顔を拭いてあげると、愛娘の右目から、一筋の涙が流れ落ちた。


娘を失ってからの日々。佐藤さんは精一杯に明るく振る舞うようにした。人前では沈んだ顔を見せることなく。それでも一人になると、自然と涙がこぼれた。


やがて5月。俳句の授業を担当した。「今の気持ちを素直に五七五に」。家族を亡くした教え子もいる。つらい思いをさせるのではないか、と不安もあったが、生徒たちは一心に言葉を紡ぎ始めた。「みあげれば がれきの上に こいのぼり」「夢だけは 壊せなかった 大震災」......。"名句"が次々に生まれた。


ある句に目が止まった。「見たことない 女川町を 受け止める」。信じられない光景。信じたくない現実。だが、それを受け止めることから、全ては始まるのではないか。「悲しみに向き合うことの大切さを、生徒に教えられた」


娘を含め、学校管理下にあった74人の児童と10人の教職員が犠牲になった大川小の悲劇。親として、教師として、佐藤さんはその事実に向き合い続けてきた。


大川小には、すぐ裏に低学年でも登れる山がある。しかし児童は、地震発生後約50分間、校庭に待機させられた。防災無線や市の広報車、ラジオは大津波警報を伝え、高台への避難を促していた。「避難するための時間も、情報も、手段もあった」。なのになぜ―。


「子どもの命を最優先にした議論ができなかったからだ」と佐藤さんは考えている。「学校は子どもの命を守り輝かせる場所。それを普段から意識し、話し合う組織であれば、誰かが『ここにいては駄目だ!』と強く言ったはずだ」。語気鋭く語る姿に、悲劇を二度と繰り返させない、逝った愛娘の命を無駄にしない、との強烈な意志がにじむ。


昨年4月、12年間勤務した女川町を離れ、東松島市立矢本第二中学校に赴任。防災担当主幹教諭を務める。作成した防災だよりは、『もしもはいつもの中に』とのタイトルにした。


「あの日以来、多くの大切なことに気付かされた。それを誰もが分かる言葉にして、遠くの人、未来の人に伝えたい」。そんな思いで「小さな命の意味を考える会」を設立し、仕事の傍ら全国各地で講演を行う。ラジオでも、折に触れて大川小のことを、そして「命」のことを語ってきた。


震災から4年。いま娘さんに伝えたいことはありますか、と問うと、佐藤さんは微笑んだ。「特にないよ。いつもそばで、俺の話を聞いてくれているから」(遠藤伸幸)



息子に教わった"宝物"



手記 宮城・名取市 丹野 祐子さん



ちょっとだけ、心の時計を巻き戻してみて下さい。2011年3月11日。あの日あの時、皆さんは、どこで何をしていましたか? 私は、名取市の閖上中学校の卒業式に、3年生の娘と1年生の息子と共に参列していました。式後の謝恩会の最中に、あの大きな地震が起きたのです。


でも、本当に恐ろしい出来事は、それから1時間6分後にやってきました。高さが10メートルにもなる大津波......。私は、そばにいたはずの息子の姿を見失い、気付いた時には、建物の上から、目の前を流れる黒い水を、ただただ呆然と眺めていました。


それからの日々、息子を失った私は、涙をこぼすことしかできませんでした。この先どう生きていけばいいのか。苦しくて、つらくて、どうしようもなくて......。そんな時、出会ったのが心療内科医のK先生でした。


先生は、「息子を失いました」と言うと、大粒の涙を流してくれました。「子どもたちが生きた証しを残そう」とのアドバイスも頂き、遺族で協力して学校に慰霊碑を建てました。碑に触れた人たちには、私の息子をはじめ、犠牲になった14人の子どもたちの"生の証し"を感じ取ってもらい、津波の恐ろしさを学んでもらっています。


息子は、自分の命と引き換えに、色んなことを私に教えてくれました。その中で、"一番の宝物"は「命が大事」というメッセージを私の命に刻んでくれたことです。


あの日、たった3分の津波で家を流され、全財産を失いました。バブル時代、無理して買った、ちょっと大きめのダイヤも流されました。悔しいです。残念です。でも、息子が気付かせてくれたのです。"命の重さ"に比べたら、そんなものはあまりにちっぽけだって。今は心の底から、そう思えるのです。


そのことを一人でも多くの人に伝えたくて、仲間と共に市民団体「ゆりあげかもめ」を立ち上げ、語り部としての活動もしています。


あの日から4年。すっかり破壊された閖上の街は今、懸命に復興への道を歩んでいます。いつの日か、新しく生まれ変わった閖上に遊びに来て下さい。そして、おばあちゃんになってもきっと続けている私の"語り"を聞いてほしいと願っています。

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