e戦争は人間が人間でなくなる
- 2016.08.17
- 情勢/社会
公明新聞:2016年8月15日(月)付
党沖縄県本部南風原支部の「平和学習会」から
きょう8月15日は、71回目の終戦記念日です。公明党沖縄県本部南風原支部(支部長=浦崎みゆき南風原町議)は9日、20万人もの犠牲者を出した沖縄戦の「語り部」として活躍する女性党員の仲程シゲさん(86)を講師に、「平和を繋ぐ」をテーマに「平和学習会」を南風原町内で開催しました。
悲惨な記憶を風化させない。平和への思い、若い世代に継承
「戦争は人間が人間でなくなる。私は命の限り戦争の悲惨さを語り続けていく」――。仲程さんの凛とした声が響くと、話に聞き入っていた党員と支持者は、平和への思いを共有するかのように深くうなずいていました。
党南風原支部主催の平和学習会では、冒頭、浦崎議員があいさつ。「戦後71年がたつが、戦争の記憶を風化させてはならない。私たちが平和への思いを継承し、平和な時代を築いていかなくてはいけない」と決意を述べました。
続いて島袋美華子さんが、大きなテレビ画面に映し出された沖縄戦の体験を描いた絵本を、沖縄の方言を交じえながら朗読しました。
仲程さんは、1944年(昭和19年)当時、まだ国民学校の生徒でしたが疎開はせずに軍の水くみ班として残りました。講演で仲程さんは、米軍上陸で戦局が絶望的になった45年5月頃から家族、親戚とともに、雨のように降り注ぐ爆弾や艦砲射撃をくぐり抜け、米軍の捕虜となって終戦を迎えるまでの体験を紹介。
さらに戦後は、全国各地での語り部としての活動の傍ら、ガマ(洞穴)に残された日本人の遺骨収集を行ってきたこと、戦時中のわずかな期間、自宅に居住した日本兵の遺族を捜し出して面会したこと、若い世代に戦争体験を伝えようと、大学祭(東京都の創価大学)でも学生たちから請われて15回にわたって沖縄戦のコーナーで講演してきたことを語りました。
学習会の参加者は、「実際に体験した人の話には重みがありました。平和のために何かできることをしていきたい」(入石垣清美さん)、「子どもにも、孫の世代にも戦争がいかに悲惨なものか伝えていかなければいけないと強く思った」(高良幸子さん)と感想を述べていました。
降伏叫んだ兵士が殺される
沖縄戦の語り部 仲程シゲさん(党員)
1944年7月頃から日本軍が来て、学校も奪われ家も強制的に兵隊の宿舎になりました。生徒の一部が熊本や宮崎に疎開しましたが、私は軍の水くみ班として残りました。
45年4月には米軍が沖縄本島に上陸し、5月末にはこの南部地域は最大の激戦地になっていました。私たち一家は、米軍に追い立てられるように、砲弾や爆撃の中を南へ南へと逃げました。その頃には食べる物もなく、道端に転がる多くの死体を見ても何の感情も働かなくなっていました。
気が付くと、もう米軍の戦車が目の前まで迫っていました。その時、叔父が「皆で死のう」と、親戚の子ども5人、大人6人を一カ所に集め、手榴弾を爆発させようとしましたが、母が「子どもたちが、かわいそうだ」と泣いて止めました。
逃げる途中で親戚4人が目の前で命を落とし、私も砲弾の破片が眉間に突き刺さりました。あまりの出血に母は「シゲはもう死んだ」と思ったそうです。その破片を取り除いたのはつい最近のことです。
6月21日、美しい海を見下ろす摩文仁の断崖絶壁にたどり着いた時、沖縄出身の若い兵士が、沖縄方言で「米軍の捕虜になろう」と叫んだのです。すると一人の日本兵がその兵士に走り寄り、日本刀で彼の首をばっさりと切り落としてしまったのです。
私は、一生その光景を忘れることができません。私の反戦活動の原点です。人々を救おうと勇気を持って叫び、殺されたあの青年に代わり、私は命ある限り平和を訴えずにはいられないのです。(講演要旨)