eイタイイタイ病、認定50年
- 2018.05.08
- 情勢/解説
2018年5月8日
日本初の公害病 歴史の継承重要に
富山県の神通川流域で発生したカドミウムを原因とするイタイイタイ病(メモ)が日本初の公害病として認められてから、きょう8日で50年を迎える。計200人の認定患者のうち、存命しているのはわずか5人。公害によるイタイイタイ病被害の歴史の風化をいかに食い止め、後世の教訓として継承していくかが重要な課題となっている。
そうした中、県立イタイイタイ病資料館の名誉館長を務める鏡森定信さん(74)は、多くの患者の診療を経験した医師として、「語り部の声など、生きた資料を若い人たちに伝えたい」と、被害の伝承に向けた決意を新たにする。
鏡森さんは大学卒業後、被害が最も激しかった富山県婦中町(現富山市)にあった萩野病院で研修。「イタイイタイ病」の原因を早くから指摘し、同病の命名者でもある萩野昇医師の下、入院患者100人以上の診療に当たった。
2012年の同資料館オープンと同時に、館長に就任。資料や写真の展示と併せ、被害者の家族ら「語り部」が体験を語る活動を通じ、公害の恐ろしさを伝えてきた。「社会に耳を澄まして、どんな情報が必要かということを常に考えている」と、過去の資料だけではない「生きた資料館」をめざす。
公明が調査、救済の道開く
イタイイタイ病について、公明党は矢追秀彦参院議員(当時、故人)が、1967年5月26日に国会で初めて取り上げ、政府を追及。総力を挙げて被害実態を調査するとともに、同年12月には患者に寄り添って厚生相(当時)らへの陳情にも行き、その後の公害病認定に導いた。こうした闘いは、公明党が誇る「現場主義」の原点となっている。
鏡森さんは、矢追氏ら公明党の取り組みを目の当たりにしており、「萩野先生が矢追さんに電話し、患者救済について話し合うこともありました。公明党の調査がなければ、この公害病が富山県の小さな問題として片付けられていたでしょう」(4月29日付公明新聞日曜版)と語っている。
イタイイタイ病
水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそくと並ぶ四大公害病の一つ。岐阜県の神岡鉱山から排出されたカドミウムが神通川流域に流れ込み、汚染された水や米などを摂取した人たちが腎臓障害や骨粗しょう症を伴う骨軟化症を発症。1910年代から患者が発生し始めたとされ、68年に国内初の公害病として認定された。2013年、被害者団体と原因企業の三井金属鉱業が、前段症状の発症者に一時金を支払うなどとした合意書を交わし、全面解決した。